2023年1月1日

2023/1/1 元旦

気持ちのいい気温の日暮れ。

仕事終わりに何も持たず初詣に出かける。

首途神社。かどで、と読む。源義経が旅立ちの際に参ったことが由来の旅の安全を祈願する神社だ。絵馬掛けには、旅行、留学の無事を祈るもの、人生を旅に喩えた願いが掛けてある。

初詣を済ませ、今年の運勢を占うために100円を賽銭箱横の回収箱に入れる。しかし、どこにもおみくじは見当たらない。どうやら今あるのは清め塩だけで、もう一枚100円硬貨を箱に入れて塩を一つ持って帰る。「ご祈祷した清め塩です。ご自宅の気になる場所に、家庭でのお料理に。」今、最も気になるのは自分自身の身体だ。今夜、風呂場で自分の身体に塩を撒こうと思い立って、社を後にする。階段を降りていく途中、鳥居の前を薄着の眼鏡を掛けた青年がバックパックを背に通り過ぎた。。背中のバックパックからは白色のポールのようなものが幾つか出ており、三脚だと想像する。束の間、彼の持つ物語を声に出さず語る。おそらく彼は大学生で写真を撮ることで世界をより詳細に知ろうとしているのであり、元旦の風景を色々と撮影して回っているのだろうと。

通りかかった瞬間、彼の姿が印象的だったものの、何歩か歩き続けた後には清め塩のことを考えていた。鳥居を出る直前、神社に参りに来た何人かとすれ違った。彼らの話し声が背中に響く。その話題に歩みの速度は緩み、もう少しここにいてもいいかもしれないと考え直し神社の隣の公園へ足を向ける。この公園は桜の木がたくさん植えられていて春には絶景となる。今はまだその片鱗も見てとれない寒々とした木の下で先ほどの青年がバックパックの中からジャグリングの道具であるクラブを取り出した。そのまま勢いよく宙に放る。全部で5つのクラブが空を交互に打ち上がっては落下する。三脚かと思っていた白のポールはクラブで、彼は一心不乱に突如としてその連鎖運動を始めた。そうか、彼はこれまで何度か見かけていたんだと思い出す。彼と初めて出会った今日、同時に彼を前から知っていたのだ。スーパーの帰り、コーヒーショップへの道すがら、誰かがこの場所でジャグリングをしていた光景を思い起こす。僕は近くのベンチに腰を掛け彼に視線を投げかけたまま観察を始める。

それから60分後。60分前に自分の身に起きたことを整理するために鮮度ある記憶から言葉を手繰り寄せる。

彼と会話することはなかった。彼を桜の木の下に残し公園を去る時、心中にあったのは声をかけられなかった後悔。そして悩んでいたあの時間、既に僕は1人ではなかったという奇妙な実感だった。
この青年のような人に出会ってしまうと僕は「一緒にセッションしませんか?」という言葉を掛けたい衝動に駆られる。その突拍子の無さにいつも笑えてくるのだが、彼の観察を始めてから公園を去るまでその心持ちは笑いとは無縁であり、目下の重要な問題となる。
今、この瞬間への無限の価値を見出してしまったことが、僕の頭を重く硬直させる。そして今日は、声を掛けて行われるセッションと名付けられた奇妙な時間に踏み入れる気概という通行手形を永遠に手に入れられないままだった。

「あれ何?すごーい。」「すごいね!ジャグリングだよ。」「あんなに高いところまで飛んでる。」公園の前を通り過ぎていく家族が口々に言うように、彼が行っていることは『ジャグリング』という窓枠の中から眺めることのできる行為なのであり、セッションをすることでその枠組みは揺らぐ。何をしているのかわからない状況が突如として噴出し、日常生活を営む人々の視線には捉えられざる疎外された二つの身体が立ち上がる。

今回は手元に何の準備もなく、音楽やカメラを設置することができなかったことも大きいだろう。これまで行ってきたセッションは多くの場合、空間を仮設的に設ることから始まる。挨拶をし相手に承諾をもらう。カメラを設置し撮影することで自分達への視線が共有される。音楽をスピーカーで再生しリズムと音楽から想起される雰囲気を共有する。バックグラウンドの異なる他者同士が仮設的な時空間を渡り切る。そのためには、代替的に使用される『言語』を開発する必要があり、この環境はその補助に一役買っているように思われる。ピジン語(=意思疎通ができない異なる言語圏の間で交易を行う際、商人らの間で自然に作り上げられた言語)を共に作っていくように。(*’Business’が中国的に発音された’Pidgin’からピジン語の語源になっているように、完全に二つの言語が互換化されるというよりも、ここでは英語ないしインド・ヨーロッパ語族の言語がベースになっているものとして考える。)セッション中に開発されるベースにある『言語』とはダンス=身体運動=視覚から受容されるものである。つまり私と初対面の他者は視覚的なサインを土台とした言語を、緊急的に制作し実践しているのだ。

私たちは知らない他者に話しかける時、孤独を宿しているのではないだろうか。自身の身寄りの無さを相手に反射して見ているのではないか。あの時、確かに僕は彼と共に在った。しかし同時に、1人でもあった。

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